中年野球。

下手でもいい。でも上手くはなりたい。人間だもの。

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野球再開のきっかけ

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超絶運動不足による成人病の危機から脱出するため、人生の後半生をより充実したものとするため、そして何より「そうだ、もう一度野球やろう」となんとなく思ったため、四十路後半にしてわたくしは「中年野球」なるスポーツを始めてみることにした。

 

……という文章を毎回冒頭に固定している筆者だが(週刊文春の連載でみうらじゅんさんが書く『人生の3分の2はいやらしいことを考えてきた』みたいなもの)、なぜ「そうだ、もう一度野球やろう」と思ったかについて、ある程度詳しくお話ししておこう。今回はどうしても「俺語り」になってしまうことをご容赦いただきたい。

 

 

 

「……また野球がやりたい」。そう痛切に思ったのは、なぜかフットサルをやっている真っ最中のことであった。

 

時は今から7、8年前、「40代」と呼ばれるようになったばかりのタイミングだ。その頃は週イチで11人制サッカーに参加していたわたしだが、当日は友人に誘われて神宮外苑コートでのフットサルに参加していたのだ。

 

が、とにかく身体が動かない。10分どころか1分もコート内で上下動を繰り返すと完全に息は上がり、足はもつれ、もつれたところにボールが来るものだから無様なトラップミスを連発し、我ながらダサすぎて死にたくなる。

 

「ダメだ……サッカー系をやるには俺はもう老いてしまった。限界だ、引退だ……」

 

そうひとりつぶやいてコートを離れ、ゲージの外に立ち、うつむき、そして心の中でワンマン引退式を開催した。で、気が済んで顔を上げると……目の前には神宮外苑の軟式野球グラウンドがあり、そこでは自分と同年代のおっさんらが揃いのユニフォームを着て、何やら楽しげに「野球」なるスポーツに高じていた。

 

「……そうだ、サッカーがダメでも野球があるじゃないか。うむ、野球だ。野球しかない。今この瞬間、俺はサッカー選手であることをやめて野球選手になるのだ! うおおおおおおおおおお!!!」

 

そう(心の中で)雄叫びを上げ、その勢いで自宅近所のスポーツ用品店へ走り、テキトーな安いグローブと軟式球1個を購入した。よく覚えてないがグローブは確か7000円ぐらいの特売品だったと思う。

 

いくら「引退式」が終わった瞬間にたまたま目に入ったものが「おっさんらがやっている草野球」だったからとはいえ、なぜこんなにもスムーズに「そうだ! 野球だ!!!」と確信したかについては説明が必要だろう。

 

わたしは小学生の頃、割ときちんと野球をやっていたのだ。

 

1970年代の日本ではサッカーはまだメジャー球技ではなく、「野球」こそが王道にしてほぼ唯一の人気球技だった。そのため、兄の影響もあって幼稚園生の頃から近所の空き地でなんとなくままごと野球を始め、小学1年生も終わる頃には(同年齢のなかでは)そこそこ上手なプレーヤーになっていた。そして2年生の何月だったかは忘れたが、通っていた小学校の少年野球チーム「西田エンジェルス(後に校内の複数チームが大同団結して西田野球クラブに改編)」に、満を持して入団届けを出したのだ。

 

「2年生だとまだちょっと早いなぁ……」と当時の監督からは難色を示されたが、わたしの熱意と、そして兄の同級生であった某6年生レギュラーの「カントク、こいつ2年のくせに結構上手いから大丈夫だよ、ついてこれるよ!」という後押しもあり、わたしはエンジェルスへの入団を許可された。背番号は33番。本当に嬉しかった。

 

だがそんな少年野球生活も、さまざまな事情があって6年生の途中で辞めてしまった。話せば長くなるが、長いだけでまったく面白い話ではないので詳細は割愛するが、辞めてしまったいちばんの直接的な理由は、5年生の終わりごろに「M永くん」が大阪から転校してきたことなのだろう。

 

5年生の終わり頃、ショートストップの補欠だったわたしは「……6年生が卒業したら来季の背番号6はオレだな、ぐふふふふ……」とほぼ確信していた。が、そこにやってきたのが転校生のM永くんで、快活なM永くんは「ヨロシク! 君のポジションどこ? あ、ショートなんや、オレと同じやね。頑張ろうね!」とさわやかに握手してきた。

 

そしてM永くんはさわやかなだけではなく、実に上手かった。

 

当然「6番」を付けたのは6年生になったM永くんで、わたしは相変わらず33番を付けていた。その当時のことは諸事情によりほとんど覚えていないのだが、たぶんわたしは「くさってしまった」のだろう。いつしか毎週日曜日の練習に行かなくなり、6年生のはじめ頃にはエンジェルス(その時はすでに西田野球クラブ)から完全にフェイドアウトした。

 

そして時は流れ、わたしは青年になり、若手社会人になり、最近ではおっさんになった。そんな流れのなか、70年代に光り輝いていたメジャー球技「野球」は、いつしか「古くさくてダサいもの」という位置づけに変わっていた。いや、わたしの主観がそう思わせただけかもしれないが、そういった時代のムードは確かにあったように思う(主に讀賣ジャイアンツのせいなんじゃないかと思う。知らんけど)。

 

野球はダサい。選手のファッションがダサい。サッカーと違ってプレーとプレーの間に時間がかかりすぎるのがダサい。あの2本の棒状風船みたいなのを叩く応援スタイルがダサい。ラッパの応援歌もダサい。讀賣がダサい(知らんけど)……等々々々々の想いが重なり、わたしのなかで「野球=自分とはまったく関係ない何か」という認識が完全に固定されていた。

 

しかし神宮外苑フットサルコートで引退式を行ったあの瞬間、それらすべてが「どうでもいいこと」に思えたのだ。

 

「そういえばオレって子供の頃、あんなにも野球が好きだったじゃないか。……またやりてえなぁ……ていうか別にやってもいいんだよな。やっちゃいけないなんて法律はないもんなぁ」というようなこと0.1秒で考え、その結果として、「……そうだ、野球があるじゃないか。うむ、野球だ、野球しかない。今この瞬間、俺はサッカー選手であることをやめ、野球選手になるのだ! うおおおおおおおおおお!!!」という外苑の雄叫びが生まれたのだ。

 

まぁ実際は紆余曲折あって、その雄叫びから8年後に我が『東京フォッケウルフ』が結成されたわけだが、今ではすっかり野球好きのおっさんになった。月2回を目安に東京フォッケウルフの練習を重ね、ヒマなときはバッセンに行き、まるで私立中への進学を目指す小学生が塾へ行くように「野球塾」に通い、ついでにNPBのシーズン中は東京ヤクルトスワローズを応援するため神宮球場外野自由席にも日参している。

 

あのとき、神宮外苑でたまたま草野球のおっさんらが目に入って本当に良かったと思っている。タイミングの神様に感謝している。まぁ「2本の棒状風船みたいなのを叩く応援スタイル」はやっぱり究極にダサいと思うので、あれだけはいまだにやらないんだけどね。